| 年月日 | 歳 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1978年 | 0歳 | 父と母は大阪で出会い、結婚式を周防大島の伊保田で挙げ、そして僕は2月5日に大阪で誕生し1歳になる前に周防大島の伊保田へUターンした。 |
| 1982年 | 4歳 | 家から100mにある伊保田保育園に入園。最初は一人で行くのが怖く祖母と一緒に登園。早く登園したらレゴブロックで遊べる事を知り保育園が楽しくなる。この頃、はとこで同級生の西山喬と出会う。またはとこの西山宏幸は日前から越して来て一人でバスに乗れる事を知り驚愕する。 |
| 1984年 | 6歳 | |
| 1990年 | 12歳 | |
| 1993年 | 15歳 | |
| 1996年 | 18歳 |
1. 工事現場とユンボ
曾祖父が創業し80年、周防大島の土建屋「大野工業」の長男。そして跡継ぎとして1978年2月5日に生まれる。 従業員さんたちが跡継ぎという小学生の僕に、気を使っている状態が不快で、土建屋を継ぐ気にはなれなかった。更に、一つ下に妹がおり、中学生の頃、二人で父の測量の仕事を手伝うが、妹がほうが器用で要領がよく仕事ができ、僕はほめられなかった(記憶では)ので、土木技術者として跡を継がないと決心した。

伊保田保育園の遠足にて。僕以外は妹と同級生ではとこの西山喬。
2. 油田中学校卒業
中学3年生の頃、周防大島の旧東和町は高齢化率41.5%で日本一高齢化した町というのを東和広報で知り、当時NHKのニュースで流れた2050年の日本の高齢化率より高かったのが、衝撃的だった。
そしてその頃、偶然読んでいた「世界の村おこし・町づくり」という新書にあった、カルフォルニア州ロスムアにある、退職後の第二の人生を提供する「リタイアメントコミュニティ」という町づくりを知ったことが“島おこし”を志す原点となる。
日本の半世紀先を行く周防大島で、日本版リタイアメントコミュニティという地域開発を行う事ができれば、土木技術者ではなくプロデューサーという仕事を創る事ができる。将来、公共事業が減っても新規事業で雇用を創出し、島おこしにもなると確信した。そして、僕は中学3年生の時に、島おこしプロデューサーが自分の天職だと強く感じた。
油田中学校の卒業式。かけがえのない男子7人の同級生たち。
3. 景観設計
中学卒業後は、島を出て広島の崇徳高校(男子校)に進学し、五日市にて叔父(父の弟)家族にお世話になりまがら、一人暮らしをスタート。部活は県内強豪校のラグビー部に入部。その頃は、本気で花園を目指し月曜日以外は全て練習の日々(3年間の最高成績は中国大会2位)、ラグビーボールを追いかける毎日で、島おこしの事を考える余裕はあまりなかったが、大学は大阪芸術大学の環境デザイン学科へ。入学前から、卒業制作は「リタイアメントコミュニティ」の設計と高校時代から決めていた。卒業制作のレポートに若生先生(今では学科長)へ、「10年後にブラウン管の前でお会いしましょう。」と書いた自分は若かった。(33歳になるまでに約束を果たすぞ!)
就職は、公園設計や橋梁設計を行う、大阪の建設コンサルティング会社へ。将来、周防大島に帰り「リタイアメントコミュニティ」をプロデュースするという目標は持ち続けていた。だが、ちょうどその2000年頃から、ADSL等のブロードバンドが急速に都市部で普及し始め、これからはインターネットの時代だ!と強く感じ、入社1ヶ月で社長へ、“インターネットコンペによる住空間設計サイト”という新規事業を提案するが、生意気すぎ社長と喧嘩し三ヶ月で退職。「お前はあたまでっかちや、インターネットのことやりたかったら、インターネットの会社に行け!」という会話が最後だった。
(実は、東京へ転職後、2002年に恩師文野のおかげで、“インターネットコンペによる住空間設計サイト”の事業案は、チームLic.bizとして勉強会にてプレゼンさせて頂いた。この時もひとつの大きなターニングポイントとなった。早河さんはじめ本当にありがとうございます!それと、同い年でSonyを退社し起業していたカフェグルーヴの浜田寿人さんからも大きな刺激をもらいました。)
大阪芸術大学の卒業制作でデザインした周防大島版「リタイアメントコミュニティ」。
4. スーツの会社員時代から自由の身へ
そして、次の日から転職活動を始め、翌年2001年2月5日(誕生日)に東京のインターネットベンチャーへインターネットコンサルタント(営業マン)として転職、未経験の23歳には見合わない給料をもらいながら企画営業三昧の日々。しかし、ホームページの作り方さえも知らず、毎日電話営業200件、アポ先を営業し自宅に帰ると夜中の12時。という生活を1年間続ける。
1年間頑張ったが、成果を出せずクビになりかけていた時、恩師となるホームページ制作会社、有限会社スーテイジ(会社ロゴは大野デザイン)の文野恭男社長に拾ってもらう。この出会いが、人生最大のターミングポイントになった。
社長宅へ泊まり込み、奥様がつくってくれた夕食を家族と共に頂き、3歳の息子が泣く夜はだっこした。家に帰るのは週に2、3回だった。徹夜は当たり前、時には、48時間業務にも挑戦した。その頃、初めて人と一緒に働くということを学ばせてもらったと思う。それと、文野社長に「大野くんの本当にやりたいことは何?島おこしじゃないの?何をしたいの?」と毎晩語り合う中で、島おこしの“夢”を思い出した。
文野社長の会社にて9ヶ月の出向後、元の会社へ戻るが、ひとつの業務ミスをきっかけに社長から「もう、フルモデルチェンジしたほうがいいんじゃない?」と辞職を促され、辞めることにするが、それだけじゃ悔しいので、強引に有給休暇を2週間取り、会社からの出社催促電話も無視し、付き合いのあった商社の方からホームページ制作を受注し、有給休暇中に納品し、初めて会社員としてでなく自分の力で売上げた。この経験が東京でフリーランス(起業)になる事の自信になった。(今考えると、かなり無茶な選択をしたと思う。)納品した後日、美容院で茶髪にし出社し辞職願いを届ける。(あの頃は本当に若かった。。)
その後、世田谷区下北沢エリアで自宅兼事務所のWebデザイナーとして独立しながら、島おこしプランを磨くために、NPO法人ETIC.(エティック)が開催する「STYLE2003」という社会起業家育成ビジネスプランコンペに出場したり、小室淑恵(元資生堂トップ営業マン、現在は株式会社ワーク・ライフバランス 代表取締役社長)主催の実践型プレゼン塾「小室ファミリー」にて、プレゼンテーションを修行。この頃、「NPO法人ホームタウンやまがた」の運営にも携わりながら、日本全国で地域おこしを志す同世代の若者たちと東京で出会う。
その頃、売上が少ない月は、家賃を支払うと食費がなく、パン屋でパンの耳をもらい食いつないだ日々や、電話料金が支払えず自宅のインターネットが使えなくなり、近所のスターバックスコーヒーに自分のMacを持ち込み、公衆無線LANを使わせてもらい、コーヒー1杯で一日中仕事をした事もあったが、自分らしく生きているという満足感・充実感でいっぱいだった。
東京会社員時代の社内クリスマスパーティーにて。
5. 夕日と海の周防大島へUターン
ただ、東京にいても島のことは何もできないとジレンマを感じていた頃、母が入院した事で、親はいつまでも生きていないと強く感じた。Uターンの決め手となった。それと、油田中学卒業後、崇徳高校進学時に買ってもらったテレビが11年目にして壊れ、僕の旅も終わったのだと感じた。
2004年7月31日に青春17切符で、故郷、周防大島へ帰った。周防大島に帰って一番感動したのは、東京とちがい、空が広い・潜れる海がある、自然を五感で感じられる。周防大島に帰って来てよかったと強く感じた。

瀬戸内海に沈む夕日と島スタイル(伊保田)
6. フリーペーパー島スタイル創刊
Uターン後の半年間は、大野工業にてアルバイト。毎朝、現場に出てヘルメットをかぶり作業をしたり、工事書類づくりや経理の仕事も手伝ったが、業務中に、島おこし事業の事を考え上の空になったり、集中力を欠き居眠りをする事も . . . 。ある日、取締役である母と業務中に口論になり、「他の従業員でもできる仕事はしたくない、自分にしかできない仕事を自分でしたいんじゃ!」と大口を叩いた事もあった。
測量を手伝った日に、社長である父から「土木の仕事をしたいんじゃったら、与えられた仕事以上に自分で勉強してやるもんよ。それがお前にはないのお。」と言われた。その出来事で僕は決めた。新しい人に出会うのが好き、デザインが好き。これを組み合わせ、周防大島で自営業や起業している若者を特集した冊子を無料配布する広告事業=フリーペーパーを発行する事で、自分に出来る“島おこし”をやってみよう。それが「島スタイル」だった。
ただ、自己資金が少なく創刊号から広告を確保できるかリスクがあったため、ハウジングアンドコミュニティ財団と日本離島センターの助成プログラムへ応募し採択され、80万円ほど資金調達ができた。そして2005年2月に創刊。2006年4月からは、東和町どっとこむの藤井忠明氏の事務所にワンデスクを間借りし独立。フリーペーパー以外にも家紋アロハを仲間でつくり90万円ほど売上げたり、山口県若者の出会い事業を運営したりする中、NHK中国5県版「ふるさと発人口減少社会シリーズ」では5回連続で出演させて頂いた。
これまで発行した島スタイル。(現在14号をデザイン中。)
7. 慶子と杏と尽、そして百花。
2007年3月22日に入籍し4人家族となる。その年の8月1日に百花(もか)が生まれ、現在5人家族。この日は偶然にも、周防大島出身で離島や中山間地域の地域ビジネスプロデューサーとして全国を飛び回った民俗学者「宮本常一」の生誕100周年の日だった。
僕は、「30年後の周防大島のどの村にも、子どもたちの笑い声が聞こえるために。」を実現させるために生きている。2013年までに「情熱大陸」に出演し、周防大島の子どもたちが東京でも誇れる島にするぞ!

家族で本籍(伊保田字木谷)のみかん山で、みかんもぎ中。じいちゃんの
出発・終着地点でもあり、大野家の源流。ここから新しい物語を創る。
(撮影:デジタル詩人 西山喬)













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