僕が1993年3月に卒業した母校「油田中学校(ゆだちゅうがっこう)」の62年の歴史が終わった。
「この“終わり”を、何か新しい“始まり”にしたい。」と強く感じた。
色々な方が挨拶をしたが、一番心に響いたのは、3年長尾くんの言葉だった。
最後の「ありがとう。」の後に、拍手が巻き起こった。
油田中学校は昭和30年代には300人以上の生徒がいたが、現在は30人を割っている。
なんと生徒数が十分の一なのだ。僕が中学生時代は40人くらいだったので、15年前
の状態をもし維持できていれば、閉校は免れたのかどうか。疑問は尽きない。
母校が閉校になる事は、確かに卒業生としてすごく寂しい気持ちになるし、大島大橋から
一番遠い油田地区が益々衰退するきっかけになりかねない事を不安にも思う。けれど、
閉校式の帰りに陸奥記念館の坂を車で降り、なぎさ水族館の前に停車するバイク集団や
琴平町の観光バスを見た時に、僕は涙を我慢する事ができなかった。
僕の涙は寂しさの涙ではなく、悔し涙だった。
16年前、僕が中学三年生だった頃、そろそろ大島大橋が無料化となるという予定を知っていた
方々はいたと思う。無料化になれば、観光客数は増加するかもしれないが、若年人口の流出が
加速し、柳井市の量販店との勝負に島内小売業が苦戦し、内需型の事業が衰退すると予測でき
る方もいたはずだ。
だけれど、この島は僕の見る限りでは、ほとんど何も対応策を取っていなかったのではないか。
特に、油田地区のように、大島大橋から一番遠いエリアは無料化のデメリットを大きく受けると
予測できたはずだ。
国道が整備されればされる程、内需型の事業はダメージを受けたに違いない。そう考えると、
公共事業で大学まで行かせてもらった僕は、僕がこれからしなくてはならない大きな仕事は、
整備された国道や農道を活用した島内経済の活性化であると感じる。
もし、16年前に、僕が31歳で島おこしを仕事にしていたなら、観光客向けの新事業の創出支援を
行い、島内雇用の質的変化を促し、油田地区で暮らしながら子どもたちを油田中学校へ通わせる
住民を維持できたかもしれない。 と空想にふけると、何で、この島は手を打たなかったんだろう、
打てなかったんだろうと怒りが込み上げ、そして悔し涙がこぼれ落ちた。
だから、僕は自分に約束をする。これからの10年は、絶対に後悔しないために。
10年後も、15年後も、油田地区から子どもたちの笑い声が聞こえて来るために、
僕ができる事は全てやる。
そして何より大切なのは、独りよがりにならない事。
自分ひとりの力は微々たるもの、多くの仲間と共に、同じゴールへ走る事。
仲間になってくれる人はまわりにいるのだから。
周防大島町長、椎木巧氏が挨拶。心境は複雑であろうか。
油田中学校の歴史時計は止まったけれど、新しい何かがここから始まる。
毎月、校歌を歌いたい!
駆けつける、おくだのおばちゃん。実は僕らが15歳の頃からずっと、
油田中学校にいるのです。油田中学校の生き字引。
今日は油田再生の記念日となる。
閉校式に訪れた卒業生たち。郷土愛は永遠に不滅です。














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