年 | 年齢 | 出来事 |
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1978年 | 0歳 | 父が大阪芸術大学で建築を学んでいる頃、母と大阪で出会い、数年後に結婚式を周防大島町(旧東和町)伊保田で挙げた。私は2月5日に大阪で誕生し、1歳になる前に周防大島町伊保田へUターンした。 |
1982年 | 4歳 | 自宅から100mにある伊保田保育園に入園。始めの頃は一人で登園する事が怖く、祖母と一緒に登園していた。早く登園したらレゴブロックで遊べる事を知り、保育園が楽しくなる。遊びと勉強の区別がないような子で、保育園の先生から「けじめ」というニックネームをもらった。同級生たちで足し算、引き算、掛け算を勉強し理解できた事で天才だと思っていた。この頃の夢は戦隊ヒーローになる事だった。 |
1984年 | 6歳 | 旧東和町立油田(ゆだ)小学校に入学。同級生は11人。全学年で約80人という、みんなが兄弟のような学校で育まれた。保育園までは伊保田という集落だけが自分の世界だったが、山を越えた油宇地区の同級生ができ、冒険できる世界が油田地区となった。 |
1990年 | 12歳 | 旧東和町立油田(ゆだ)中学校に入学。同級生は13人。小規模校ながら、軟式テニス(男子)とバレーボール(女子)で大島郡大会で優勝し山口県大会へ出場。少人数でも努力と根性で大きな中学校にも勝てる!と自信を持った。夏休みは、部活後に毎日、陸奥海水浴場へ行き泳いだ。海は僕らの青春そのもの。 |
1993年 | 15歳 | 15歳で島おこしを志す。中学校卒業後は島を出て広島へ。父の母校でもある崇徳高校へ進学。13人の同級生から全校生徒1,800人の高校のスケールに驚きながら、ふるさと周防大島の魅力に気づき始める。暮らしの面では叔父と叔母に3年間大変お世話になった。高校から県外で冒険させてくれた両親にも感謝している。花園を本気で目指すラグビー部に入部し体力と精神力が鍛えられた。50m走は5.9秒だった。広島県大会で準優勝が最高成績。 |
1996年 | 18歳 | 大阪芸術大学環境計画学科に進学。ラグビー部からアメリカンフットボール部に転身。崇徳ラグビー部で鍛えたおかげで、1年生ながら即試合出場するも、猛タックルを受け肩甲骨を骨折したが毎日グラウンドに通った。新入生が入学する春には、大学周辺の全アパートでの勧誘活動も楽しかった。卒業制作では、15歳の日記に描いた「周防大島の定住リゾート(リタイアメントコミュニティ)」を研究し、周防大島が持っている潜在的な市場に大きな可能性を感じた。15歳の頃(1993年)、アメリカのまちづくり事例を研究し、周防大島型リタイアメントコミュニティを開発したいと思ったが、あれから23年後の現在、国(まち・ひと・しごと創生本部)は日本版CCRC(生涯活躍のまち)を構想し、地方創生のひとつのビジネスモデルとして推進している。周防大島は更に20年先の未来を目指したい。 |
1. 島の公共工事に疑問を持つ
わたくしは、石工から大野工業株式会社に発展した会社の長男=後継ぎとして生まれた。大野工業株式会社は、曾祖父、大野初太郎が昭和5年に大島郡油田村にて石工として独立した事から始まっている。2015年で創業85年、2030年で創業100年となる。
両親や祖父母から、「後を継ぎなさい。」と言われたことは一度もなかったが、自分の人生にレールが敷かれているような感覚に違和感を感じ、このレール以外で生きる道はないか摸索を始めた。
父の測量等の手伝いを時々する事があったが、将来、土木技術者として働く事にドキドキ、ワクワクする感覚はなかった。自分には全く別の道があるはずだと思い始める。その頃、島の道路は大きく広がっても、自分が通う小学校の子どもの数は減っている事に疑問を持つ。
2. 商売に目覚めた
小学校5年生の時に、うわさのズッコケ株式会社という本を買ってもらい、ズッコケ三人組が釣り客にお弁当を販売し稼ぐ姿に感動する。小学生でも自分たちで商売ができるのだと本から学び、当時の社長である祖父、大野政志に「自分で商売が今したい。」と相談してみると、祖父は「山の倉庫に型枠のネジがあるけぇの、それにグリスを塗るバイトをさしちゃる。」そうして、アルバイト小学生となる。
1本のネジにグリスを塗ったら10円。500本塗ったら5,000円でファミコンのソフトが買える!500本という膨大な仕事を達成するために、友だち5人を1日500円で雇い、利益率5割、2,500円の収入という成功体験を得た。この体験から将来は起業したいと思うようになる。
3. 将来、周防大島に定住リゾートをつくりたい
中学校3年生の頃、自分が暮らしている周防大島(旧東和町)は高齢化率41.5%で日本一高齢化した町になっていることを町の広報誌で知った。そして、高齢化率41.5%が、夕方のNHKニュースで流れた2050年の日本の高齢化率より高かった事に衝撃を受けた。
そしてその頃、紀伊國屋書店(広島市中区)で、世界の村おこし・町づくり(講談社現代新書)という新書を購入し、周防大島を活性化するにはどうしたら良いのか答えを発見するために、世界のまちづくり事例を調べ始めていた。この本に、米カルフォルニア州ロスムアにある、退職後の第二の人生を提供する「リタイアメントコミュニティ」という町づくりの手法に感銘を受け、島おこしを仕事にすると志した。
日本の半世紀先を行く周防大島で、将来の団塊世代の大量退職時代に備えた、日本版リタイアメントコミュニティを家業の土木建設業を活用し開発できれば、土木技術者ではなくプロデューサーになれる。将来、公共事業が減っても島に雇用を創出し、これは島おこしになると確信した。
4. 島の中学校を卒業し広島の高校へ
油田中学校を卒業し、島を出て広島市内の崇徳高等学校(男子校)に進学する。佐伯区五日市の叔父家族にお世話になりながら一人暮らしを始める。部活は県内強豪校のラグビー部に入部し本気で花園を目指した。引退する日までラグビボールを追いかけ、厳しい上下関係、練習着を毎日洗濯、帰省は年3回という高校生活だった。才能あふれる同期生のおかげで広島県大会準優勝の経験を得る。3年間のラグビーにより非常に強固な体力・精神力を育くむ事ができた。
5. 高校の文化祭で「おにぎり屋」が大成功
崇徳高等学校の文化祭(崇徳祭)は、一日5千人以上が訪れる大きなイベントだった。二年生の時、出店内容を決める学級会で「おにぎり屋」を提案した。なぜなら、地域のお祭りや、文化祭等では、鶏の唐揚げ、焼き鳥、フランクフルト等の濃い味のおかず系のお店はあるが、ご飯を売るお店を見た事がなかった。コンビニでは、おにぎりはよく売れている。であれば、おにぎり屋は必ず成功すると仮説を立てていた。結果、投票でおにぎり屋が採択された。
自分たちで、おにぎりを握るのは手間がかかるし保健衛生上望ましくない。なので、店長を知っているお弁当屋から仕入れる事にした。仕入原価の3倍の価格で販売したが、正午までに完売。仮説で立てたビジネスモデルを成功させた経験から、自分にはビジネスセンスがあると思えるようになった。
6. 大阪芸術大学で「定住リゾート」を研究
中学校3年生の頃に思い描いた、周防大島での定住リゾートを実現するためには、どんな大学の学部・学科に進むのが良いか考えた結果、建築系だと判断した。ただ、数学が苦手だったため工学部の建築学科は対象から外し、芸術学部の建築を目指した。
2年生の時に大阪芸術大学の環境デザイン学科を受験する事を決める。推進入試の内容は、評定平均、デッサン、小論文だったので、定期テストで高得点を取る事に集中し3年生の評定平均は4.0を獲得。ラグビーをしながら月2回デッサン教室に通い、国語の先生から小論文指導を受けた。その結果、推薦入試で合格。ここ以外はどこも受験しなかったので経済的にも効率的だった。
大学では、ラグビーからアメリカンフットボールに転身。華やかなカレッジスポーツと思いきや、かなりハードな格闘型スポーツで骨折等のケガもあったが、高校ラグビー部とはちがう学生自治の体育会で、自由にそして本気でアメリカンフットボールに励んだ。
卒業制作は計画通り「周防大島での定住リゾート」の基本設計。フィールドワークで周防大島に帰り現地調査を行いながら、国内・国外の事例を参考にしながら構想をまとめる。設計だけではなく、ビジネスとしての事業計画書も作成した。卒業制作の指導をして頂いた若生謙二教授は日本で唯一の動物園デザイナーとして動物園革命(岩波書店)を出版している。周防大島にもこれまで3度ご来島頂き、なぎさ水族館等のリニューアル構想のご相談をさせて頂いている。
7. 東京へ転職し島おこしをプレゼンテーション
大阪芸術大学卒業後、大阪市内の建設コンサルティング会社へ就職するが、公共事業に携わる仕事に違和感を持ち、入社一ヶ月後、社長に新規事業の提案書を出した。事業のテーマは、インターネットコンペによる住空間設計サイト。新入社員がいきなり新規事業を提案するのは、普通ありえない事だと思うが、提案を受け止めて頂いた社長には本当に感謝している。もちろん、新規事業は実現する事はなく、このビジネスを実現できるのは東京しかないと思い、数ヶ月後に退職しフィットネスクラブでアルバイトをしながら転職活動を始めた。
2001年2月、東京のインターネットコンサルティング会社(キャッチボール21)に転職し、毎日200件の電話営業、アポイント先への提案営業を繰り返す日々。終電で帰り満員電車で出勤する東京生活を1年間続けた。
1年後にターニングポイントが訪れ、キャッチボール21の協力会社(有限会社FDL)へ出向する事になる。その会社で、人生の恩師となる文野恭男社長に出会った。社長宅兼事務所に寝泊まりし自宅に帰らずWeb制作に没頭する日々。グループ会社、有限会社スーテイジのロゴマークも制作させて頂いた。
社長宅での下宿生活。文野社長の奥様につくって頂いた夕食を家族と一緒に頂き、当時3歳の息子が夜泣きした時には抱っこしてあやした。自宅に帰るのは週に2、3回、徹夜は当たり前、48時間働く時もあった。この頃、仲間と働くということを学ばせてもらったと。そして、夜中に、文野社長と日本や教育について語り明かす中、島おこしという自分の夢を思い出した。
実は会社員をしながら、崇徳ラグビー部の同期生(元岡憲志・株式会社タッチベース 代表取締役 / 水野雄士・株式会社水野商店 専務取締役)たちとLic.bizという起業チームをつくりビジネスプランを作成していた。このビジネスプランを恩師文野たちが主催する勉強会(サンシャインプリンスホテル)にてプレゼンテーションさせて頂き、自分に不足している様々な事を知り、これからの東京生活を考えなおす大きなきっかけとなった。
9ヶ月間の出向が終わり元の会社へ戻るが、ある業務ミスから社長に退職勧告を受け退職を決断する。決断した後すぐに、営業先の商社の方(戸坂さん)からWebサイト制作の相談があり、有給休暇期間中にWebサイトの制作に取り掛かり、退職後に納品した事をきっかけに、東京でWebデザイナーとして起業する事を決めた。
2002年11月、周防大島で何をしたいのか。ノートに描いたメモがある。そこには、新しい教育のあり方も書いている。教育は地域の持続エンジンだと、その頃から考えていた。
Webデザイナーとして仕事を頂きながら、島おこしのプランを磨くために、NPO法人ETIC.が開催するソーシャルベンチャー向けビジネスプランコンテスト「STYLE2003」に出場し、佐渡島や山形をどうにかしたいという同世代の仲間と出会い、地域活性化という仕事が、これから日本に増えると確信する。
STYLE2003で出会った浅井くん(当時、NPO法人ホームタウンやまがた)からの紹介で、当時資生堂に務めていた小室淑恵(現株式会社ワーク・ライフバランス 代表取締役社長)が主宰する実践型プレゼン塾「小室ファミリー」でプレゼンテーションを学ばせて頂いた。
その頃、売上が少ない月は、家賃を支払うと食費がわずかとなり、パン屋でパンの耳をもらい食いつないだ日々。電話料金が支払えない月は、自宅のインターネットも止まってしまい、近所のスターバックスコーヒーのWifiで仕事をした等の思い出がたくさんある。
8. 周防大島へ11年ぶりにUターン
東京に出て3年が経った頃、東京にいても島のことは何もできないとジレンマを感じていた。その頃、母が入院し周防大島に帰省した時に、そろそろUターンしようと思った。そして決め手は崇徳高等学校へ進学した時に買ってもらったテレビが11年目にして壊た。テレビと共に島外での修行は終わったのだと感じた。
2004年7月23日に青春17切符で東京を出発し、7月25日に故郷の周防大島へ帰って来た。周防大島に帰って一番感動したのは、東京にはない広い360度の空、潜れる海、自然を五感で感じられる。周防大島に帰って来てよかったと強く感じた。
9. フリーペーパー島スタイル創刊
Uターン後の半年間は、大野工業にてアルバイト。毎朝、祖父や父と現場に出てヘルメットをかぶり現場仕事、工事書類の作成、母の経理等も手伝った。仕事中に、島おこし事業の事を考え集中力を欠く事もあった...
ある日、業務中に母と口論になり、「他の従業員でもできる仕事はしたくない、自分にしかできん仕事をしたいんじゃ!」と大口を叩いた事もあった...
休日に、父の測量を手伝った時、父から「土木の仕事をしたいんじゃったら、与えられた仕事以上に自分で勉強してやるもんよ。それがお前にはないのお。」と言われた。その一言で土木ではない仕事をつくると決めた。
人が好き、デザインが好きを組み合わせ、周防大島で起業している若い世代を特集したフリーペーパーを発行しよう。お小遣いと土日で出来る「島おこし」。それがフリーペーパー島スタイルとなった。ただ、自己資金は少なく創刊号から広告を確保できるかリスクがあったため、ハウジングアンドコミュニティ財団と日本離島センターの助成プログラムへ応募。見事に両方とも採択され80万円の資金調達に成功。そして2005年2月に創刊した。(それから5年間で14号発行し現在は休刊中)
2006年4月からは、東和町どっとこむ藤井忠明氏の事務所にワンデスクを間借りし独立。山口県内の企業や行政のWebサイト制作や、山口県観光連盟の動画サイト制作も開始。2006年の夏には家紋アロハを仲間とつくったり、山口県若者の出会い事業を運営したりする中で、島おこしの仕掛け人として注目されるようになった。
10. 教育から島おこしへ。
大島商船高等専門学校から応募した文部科学省の地域再生人材創出拠点の形成事業が採択された事で、2009年から5年間、特命教授やコーディネーターとして周防大島町の起業家養成塾「島スクエア」の立ち上げと運営を担った。それと同時に、2011年から3年間は大野工業株式会社が周防大島町の指定管理者となった事で、なぎさパーク(なぎさ水族館・陸奥記念館・陸奥キャンプ場)の現場責任者となり公共施設の運営について多くの事を学ばせてもらった。
そして現在、教育から島おこしを目指し、周防大島町教育委員会コミュニティ・スクールのスーパーバイザー、子ども職業セレクト研究所「親子キャリアラボ」のディレクター、株式会社ジブンノオトでのプレゼンテーション研修等、教育を仕事にしている。
11. 島で暮らす6人家族。
四人の子どもたちの父親として、そして周防大島の全ての子どもたちのために、世界に誇れる学校教育と教育産業を周防大島でつくる事を目指している。周防大島のどの村にも、子どもたちの笑い声が聞こえるために。