屋久島「しまづくりサミット2006」
掲示板あらし対策について

ひいばあちゃんが死んだ。

今日も朝から、しらき村取材、町長機関誌「ほっとグルット」
制作打ち合わせ、農政局柳井情報センターの沼田さんと、グリ
ーンステイ長浦
の豆乳豚骨ラーメン定食を食べながら、グリー
ン・ツ−リズム関連の情報交換。会食後、グリーンステイの支
配人さんと島スタイルへの広告出稿の打ち合わせ。

帰宅後、GWの「しまづくりキャラバンin大阪」出展予算
獲得のためにネゴシエーション。その他、島スタイルの
諸々作業と連絡を行い、18:00から、しらき村でedgeファ
イナルのリハーサルと修正、その内容を再度、周防大島
ブロードバンド化推進チームのメンバーにプレゼン、フィ
ードバックし修正。

帰ったら22:30でした。

ただ、家の駐車場に母の車がない、二階にばあちゃんも
いない、おかしいな。何か不吉な予感。

そして、帰宅10分後に、母から「ひいばあちゃんがさっき
亡くなったけぇ、あんた8日の午後は告別式でられるか?」
と電話があった。

僕の、ひいばあちゃんは明治生まれの98歳。
少しぼけかけて、僕の名前がわからない日もあった。
けど、ばあちゃんのお母さん、ひいばあちゃん。

明治に生まれ、戦前戦後の激動の時代を島で過ごし、
ばあちゃんを育て、ひい孫の僕が生まれた時には68歳で、
もう、お婆ちゃんだった。

4世代で同居してたわけじゃないから、思い出がたくさん
あるわけじゃないけど、お盆やお正月は一緒に過ごしてた。

島にUターンしてからは、祖父母とも毎日話ししとるし、
ばあちゃんとは時々、ご飯の献立の相談に乗ったり、
島スタイルの商売が何かとか。屋久島はどうだったとか、
早く結婚せえとか。色々と話す。

じいちゃんは、喉頭癌で手術してから、声を出し辛いけど
「圭くん、新聞に載っとるど」とか「じいちゃん、この雑誌
に載ったけえ、見てみんさい。」という会話もしている。

78歳になる、じいちゃんは、まだ土木現場でユンボに乗り
山を切り拓いているし、高校・大学時代やUターン後1年間
は、じいちゃんの現場でヘルメットかぶって仕事した。

じいちゃんの成功哲学は「島の土建屋で2番を最初から狙った
けえ、堅実に商売を成功させて来たんよ。」

確かにそうだ。その、戦後文無しから、始めたじいちゃんの
根性に僕は生かされている。今、このブログを書いている場
所も、じいちゃんが儲けて建てた家。

他にも、僕が小学生の頃に、じいちゃんから言われた、今でも
心に残っている教訓の言葉がある。

「なんで、お前は、このおもちゃがほしいんか?」
「なんで、お前は、ドラえもんを見たいんか?」

小学生の僕は、なんで、じいちゃんはおもちゃをすぐ買って
くれんのか、なんでNHKニュースばかり見るんか。すぐ喧嘩
していた。

けど、今なら意味がわかる。
おもちゃより本。ドラえもんよりNHKが自分の商売に役立つ
可能性が大きいという事。

自営業家系に生まれた僕は、成長過程で、雇われて生きると
いう生き方は選択肢になくなっていた。かといって、正統派
の跡継ぎとして生きるつもりはなく、今は自由に生かされて
いる。

土木マンと編集長。
全く畑違いだけど、結婚3年後には具体的な事業像を、関係
者の理解を得ながらオープンにしたい。今は、島の社会課題
を事業で解決できる、世界にひとつしかない自分の仕事を食
える仕事にする事に注力する。

5年後の事は、妄想し脳内で計画する。

ひいばあちゃんの死が、何か大きく僕の人生を揺れ動かす
わけではないけど、死のドミノ倒しは順を追ってやってく
る。次は、祖父母、両親、自分、子供。

だから、今を120%、自分らしく生きるしかない。
生かされているなら、明日死んでも悔いなく生きるしかない。

屋久島に行く飛行機の中で、江良さんと笑いながら話した。

「もし、今、飛行機が落ちて、死んでもしょうがないよ。
 けっこうおれたち、がんばっとるじゃあ。島のために死ん
 だようなもんじゃけえ、泣いてくれる人いっぱいおるよ^-^」

いつ死んでもいい。
死にたくないけど、この気持ちでいられるように、
明日も120%で生きます!

ひいばあちゃん、また会おうね!!

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